夏のおわり

夏には影を追って歩いた渓も、今は爽やかな風に委せている。
必ず訪れたい渓がある。魚梁瀬。特別、魚影が濃い訳でもなく、手に余る程の大物が釣れる訳でもない。理由は僕の内にしかない。
家内の温かな笑顔に送り出されて家を出た。ふと、愛車の高度計が目に止まり、目盛りをゼロ、始まりに合わせる。海岸線を飛ばし山道に入ると高度計はどんどんとその目盛りを増やしていく。500メートル。峠を越え、下る。300メートル。二股橋を渡るとまた登って行く。谷が変われば風も違う。影が増えてきた。ここを抜ければ日向が増える。
魚梁瀬。青いダム湖の向こうに在る。日曜日にも役場が開いている。遊漁券を買い求め川へ向かう。人影は少ない。あの頃は戻らないのだろうか。子供達を連れた楽しそうな家族の姿等は当然、見えない。
川へ。
渓相は悪い。川底は砂利に被われた岩盤。更に上流を目指す。目的地の少し手前に車を停め、釣りを始める。沢山の稚魚を放流している様で、小さなアメゴが良く釣れてくれる。こんな事なら途中の支流でやれば良かったかな。ちらりと思いながら釣り上がる。目的地だ。
少しだけ変わっている。しかし、大きな流れはあの頃のまま。良い流れだ。懐かしさを釣欲が飲み込みそうになる。
誰も居ない川原に腰を下ろす。10年前もここでアメゴを釣った。ルアーを投げ、フライを振り、何でも良かったのだ。釣りで無くても良かった。兎に角、家族で楽しみたかった。家事や育児に追われ不機嫌な家内も、学校や進路に悩み行き先を見失った長女も、そして全てに嫌気がさしていた僕も一緒に楽しめるものなら何でも。
家にいたくなかった。
目の前の淵にルアーを投げて巻いてみた。何かが触れた事は分かったのだが、そのまま巻く。また投げる。カチャン。カリカリ。あの日のカーディナルはもう少しうるさかった。カチャン。カリカリ。あの日もベールの返る音とラチェット音が良く鳴っていた。残念ながらドラグの音は鳴らずに。しかし、かわりに渓流釣りには似合わない家族の楽しそうな笑い声が聞こえていた。